幸せ10題
07 雨が降って虹が出て


その日はそれはもう、朝から酷い雨だった。
バケツをひっくり返したような、なんていうのは、やはりこういう天気に言うものなのだろう。
体育は当然のように室内競技だし、課外授業は全て無し。
もちろん、陸上部も休みだ。
授業が全て終わっても、まだ雨は降り続いている。
ああ、これは警報出てるんじゃないかっていう程の、見事な降りっぷりだ。
何となく気分が落ち着かない、だるい。この湿気が、堪らなく嫌だ。
さっさと帰って、さっさと寝てしまいたい。
…とか考えてると、面倒は向こうからやってくるものであって。
そして、それを放って置けない自分もどうかしていると思うわけであって。いや、もうどうかしてるんだろう。
生徒玄関には、見慣れた黄色いマフラー。
困ったように空を見上げている少年がいた。
「…綾時お前、傘は?」
声をかけると、弾かれたように顔をこちらに向けた。
「あ、啓太君、これから帰り?」
「見ての通りだ。部活も無いしな」
やけに嬉しそうな表情でこちらを見つめてくる。
その視線が、あまりにも真っ直ぐにこちらを見ていて、居心地が悪い。
だから、それをかき消すように、そっけなく尋ねた。
「で、傘は?朝から降ってたんだから、忘れたなんて事ないだろ」
「そりゃあ忘れる訳無いよ。僕、濡れるの好きじゃないし」
あの天気では濡れるどころの話ではない。
「忘れたんでも無いなら、なんで玄関に困った顔で突っ立ってる」
「あれ?困った顔してた?」
「してた」
そういうと、あははと笑ってこう言った。
「困ってる女の子がいたから、貸しちゃったんだ、傘」
「こんな雨の日に傘忘れるなんて、珍しい娘だな」
「…そうだね」
おそらくは、陰湿な嫌がらせに会ってしまった女子か、運悪く傘を盗まれた娘なのだろう。
女性に優しい彼らしい、と素直に思うと共に、やはり憎まれ口も出るもので。
「ついでに言うと、女子と一緒の傘に入って帰らないお前って言うのも、珍しい」
「あ、その手があったね。思いつかなかったな」
「今からでも遅くない。もう少し待って、女子に入れてもらったらどうだ?」
「あれ?啓太君の傘に入れてくれるんじゃないの?」
はあ、と溜息を吐く。
「何を期待してる…」
「あ、やっぱりダメだよね。冗談だよ」
綾時は今の無し、と顔の前で手を振っている。
その表情が、寂しそうな顔をしていた彼に似ていて、少し胸が痛んだ。

…実際のところ、校内には余り生徒は残っていない。
こんなに酷い雨ならば、さっさと帰って当然だろうが。噂によれば洪水警報も発令されたとか。
いつまでもここで突っ立っていても、あまり人なんて通らない。傘を貸してくれるようなお人好しが通りかかるかどうかも解らない(それはただの建前と都合のいい希望じゃないのか?という心の声が聞こえたけれど黙殺した)そして、彼を放って置けない自分はここにいる。
となれば、結局こうなる訳で。
「…別に入れないなんて言ってない」
「え」
「いつまでも、ここにいたって帰れないだろ。言っとくけど、寮までだからな」
そういうと、綾時は心底嬉しそうに笑った。
「ありがとう!やっぱり僕、啓太君好きだなー」
「誤解を招く発言は止めろ。入れないぞ」
手に持っていた、黒い、少し大きめの傘を開くと、降りしきる雨の中に踏み出した。
綾時は慌てて傘の中に入ると、自分に歩調を合わせて歩き出す。
少し大き目とはいえ、やはり男二人が入れば少し窮屈である。
傘から少しはみ出た部分が、即座に冷たく濡れて行く。その感触が気持ち悪い。
少し、綾時の方に寄った。触れた肩はあたたかく、少しだけ安心する。
寮への道を、誰かと並んで歩くのは、本当に久しぶりだった。
「そういえば、雨が降ったら、母さんがじゃのめでおむかえにくるらしいって聞いたんだけど…啓太くん、お母さんじゃないよね」
「どこをどうやったら僕が母さんに見えるんだよ…」
ところでじゃのめって何?と不思議そうな表情でこちらを見ている。
…それは童謡であって、そういうものでも習慣でもよくある事でも何でも無い。
実際に起きていたとしたら、数十年、いや、百年は前の事だろう。
今時じゃのめの傘でお迎えなんて、ありえない。
「…じゃのめってのは、和傘。昔の傘の事。ついでにそれは童謡だ」
「どうよう?へえ!良く解らないけど、古い話だったんだね」
感心しているようだ。少しその方向が違う気がするが。
「話じゃなくて歌。もう一つ言わせて貰えば、お迎えもしてない。偶然と僕の心の広さに感謝しろ」
「うわぁ…酷い上に偉そうだ…」
「…そういう事言う奴はこうだ」
笑いながら言っているのだから、冗談交じりで言っているのは解る。
だが、ほんの少し腹が立ったので、傘から綾時を追い出そうと体をぐいぐい横にやった。
綾時の体半分が傘から出て、マフラーとシャツ半分があっという間にびしょ濡れになった。
「うわっ!冷たい!寒い!」
そう叫ぶと慌てて狭い傘の中に入る。
仕返しとばかりに、今度は自分が傘の外に押し出された。
雨は、想像以上に強く、冷たい。
全身にその雨を被り、ブレザーもシャツもスラックスも、一瞬にして濡れた重たい布切れと化した。
「バカ!仕返しにしてもやり過ぎだ!」
「わ、ごめん!そこまでやるつもりは無かったんだ!」
綾時は、慌てて脇に抱えていた鞄の中からハンカチを取り出すと、自分の前に差し出した。
「気休めにしかならないけど、無いよりはいいよ。使って」
風邪を引いてしまうから、と心底心配そうな顔で言われると、本当に断れない。
なんだかんだ言って、自分は彼に弱い。
「…悪い」
「謝るのはこっちだよ」
と綾時が苦笑した。




「これ、貸してやる。忘れずに返せよ」
寮の玄関の屋根に入ると、ほら、と開いたままの黒い傘と、急いで寮から持ってきたタオルを綾時に押し付けた。
「ありがとう。いつかお礼もさせてね」
「別にいらない。普通に返してくれればいい」
「感謝しろとか言った癖に、今度は良いって言うし…」
寮の扉に手を掛けても、綾時は頬を膨らませながら、まだぶつぶつと何か言っている。
「君は本当にアマノジャクだよね…」
「天邪鬼で悪かったな」
恨めしげに綾時を睨み、ふん、と拗ねたように言い捨てると
「だけどそう言う所も好きだよ」
という台詞と共に、子供っぽい笑顔をこちらに向けられた。
いたずらっぽいその言い方は、やはり彼とよく似ていて、少しだけ戸惑う。
「だから誤解を招…」
戸惑いながらも言葉を紡ごうとする。が。
…会話を聞いていたのか、アイギスが弾を装填する小さな音と、周りの皆が止めようとする声が寮の中から聞こえた。微かに自分の表情が引きつったのが解る。いくらダメでも過激すぎるだろ、これは。
「いいからさっさと帰れ。…ハンカチ、ありがとうな。洗って返す」
「返さなくてもいいよ。持ってて」
「でも」
「いいから。ね?」
返す返さないの問答の間にも、背後から、銃を構える音が聞こえる。
もうそれどころではない。
これ以上ここにいれば、目の前の人物の命に関わる。
「…解った。持ってる」
「そうしてくれると嬉しいな」

「それじゃあ僕は、君が風邪を引かないうちに帰るよ。また明日!」
「じゃあな」
遠ざかっていく黒い傘が、歩道の角を曲がって見えなくなると、扉の前の不穏な気配が消えた。
やれやれと、心の中だけで溜息を吐くと、寮の扉を開けた。


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寮からの帰りに寄った古本屋から出ると、さっきまでの雨が嘘だったみたいに上がっていた。
夕焼けが、重たい雲の間から覗いている。空には薄く七色の掛け橋。
「虹…」
それは昼間見る虹とは違い、薄くて儚い。
直ぐに消えてしまうそれを、あまり見ていたくなくて眼を反らした。
どうしてそれを不吉だと思ってしまったのか、彼自身にも解らない。

時はもう、残っていない。







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多分惚れた弱み。
モロに綾時←キタロー(ファルロスと重ねてみてる&自覚済み)
ぶんしょうってむずかしい

2006/9/1